パニック障害で、1番厄介なのは、死ぬかもしれない!という恐怖だと思います。
吐き気・めまい・動悸など、急激に体を襲う症状ももちろん辛いですが、
それらは比較的我慢ができるというか、自分で冷静になだめることも可能だと思うのですが、
「死ぬかもしれない!」という恐怖に襲われた時は、完全に、自分を見失ってしまいます。
とにかく、怖いですよね。
パニック発作が生じるのは、交感神経が過剰に緊張して脳が誤作動して発動してしまっている。
ということは頭では理解できますが、実際にその状況になったら、どんな人でも相当な恐怖だと思います。
体に異常がなくパニック障害だと診断されている方なら、「実際に死ぬことはない」と言われていますが、
やはり、頭では理解できても、感情としては恐怖だと思います。

「死ぬかもしれない!」という恐怖は、人間が持っている1番根源的な恐怖ですよね。
すべての人が、心の奥底には「死」への恐怖を持っています。
本来なら心の奥底に沈めてある「死」への恐怖が、心の表面に出てきてしまい、なおかつそれに捉われてしまうことを、「神経症」というそうですが、
パニック障害が、以前は「不安神経症」と呼ばれていたことを考えると納得することができます。
まずは、パニック発作を怖れる自分を責めないで下さい。
あれだけの発作を経験すれば、誰だって、怖い・・・と思ってしまうはずです。
また起きたらどうしよう・・・と思い、同じ場面に行くことを尻込みしてしまう。予期不安が起きてしまうのも、当たり前だと思います。
電車に乗れない自分・人込みに行けない自分・閉鎖空間にいられない自分。
そんな自分を責める必要はありません。
あなたが弱いわけではありません。
そうは言っても、自分を責めちゃうのがパニック障害の方なんですけどね。
自分を責める必要はありません。
Twitterのフォロワーさんから、
「就活中にパニック障害を発症し、その後、どうやって自活までたどり着いたのか聞かせて下さい!」
という@を頂きました。
「就活が出来ないとなると、いくら療養しないといけないといっても、家族や周りの理解が無いと家でも肩身が狭いし追い詰められてしまいます。
他にも同じ時期に、同じような状況になる人がいるかもしれないので、聞かせて下さい」
とのことでした。
まったく、その通りですね。
以前、私は「病気の人の仕事は病気を治すことだから、堂々と昼間寝ていて下さい!」と書いたことがあります。
これは、私の経験から辿り着いた答えです。
私に初めてパニック発作が起きたのは、予備校に通うバスの中、19歳の夏でしたが、
その後重症化し、大学4年の春、就活中に一歩も家から出られなくなりました。
その状態になって初めて心療内科に行ったのですが、その後、約1年半家から出られない日々が続きます。
当然、美容院も行けませんから、髪の毛もものすごいことになりました(笑)
1年半経って、外に出られるようになった私は、すぐにアルバイトを始めました。
おそらく人間というものは、少しでも元気になると、外に出たい!と思いますし働きたい!と思うのだと思います。
1年半家から出られなかった時は、一度たりとも働かなくては・・・と思ったことはないのですが、外に出られるようになったらすぐにそう思うようになりました。
塾でのアルバイトを週4日始めたのですが、もちろん、パニック発作とヒステリー球を抱えたままのバイトです。
常に発作が起きるのではないか?という予期不安、実際のパニック発作。
結局、パキシルの副作用がひどくなり、アルバイトを続けることが体調的に困難になり辞めてしまいました。
その後、ルボックスを服用中に生死をさまよった経験から、薬を止めよう!と決意するのですが、
その時、闘病というものへの発想を転換しました。
自分としては経済的に自立していないことが後ろめたくて、何かしなくては!働かなくては!と思うのですが、
結局、病気が治らないと家族や周りに迷惑をかけることになるのです。
働いていたら、職場の人達にも迷惑がかかる。
だったら、まずは闘病に専念して、ちゃんと治してから働くことを考えたほうが良いのではないか?
実際、大学3年の時のアルバイトもパニック障害が理由で辞めていますし、大人になってからの塾のバイトもパニック障害が原因で辞めています。
だったら、やはり、パニック障害を治すことが先だろう!と。

そこからは、働かないということに開き直りました。
というのも、
働かなくちゃ!働いていない自分はダメな人間だ・・・、みんな頑張っているのに・・・。
そういうことを考えていると、ストレスが抜けないのでなかなか治らないのです。
自分でも自分の中に溜まってしまっているストレスがどのくらいの量なのかということは感覚としてわかっていましたから、
これを抜かない限り治癒はない。そう思い、まずは、ダラダラすることを自分の仕事としました。
それが、当時26歳の時でしたから、親の目・近所の目・友達の目、さまざまな目が冷たかったですが、とにかく治したい!の一心でやり通しました。
実際、「何してんの?」「堕ちるとこまで堕ちたね。」なんて言ってくる友人もいましたが、無視しました。
パニック障害を治す!
それが今の私にとって第一のやるべきことであり、そのためにダラダラしたり昼間寝ていたりするのは、立派な仕事である。
そう自分に言い聞かせました。
イヤな思いはたくさんしましたよ。
世間というものは人の事情に理解なんて示してはくれませんし、身近な家族は厄介者のような目で見てきます。
友人だって、離れていく人は離れていきます。
でも、
今、パニック障害を治さなかったら、いつまで経っても普通の生活が手に入らない。。。
そう思ったんです。
やるしかない。
結局、26歳で半年くらいダラダラした後、またアルバイトを始めました。
その後は、パニック障害を抱えながら週4日アルバイトをして、バイト以外の時間は病気や健康に関する本を山のように読み、バイト代でさまざまな代替療法を試し、パニック障害と闘いました。
この頃は、もう、薬は飲まない!精神科には行かない!と決めていましたので、逆に、家族や世間や友人の目は冷たかったです。
病院に通っていれば、一応、病人扱いしてもらえますからね。
病院に行っていないということは治ったということだ。と思う人は多いです。
もう病院に行かなくていいようになったのに、いい歳してフルタイムでは働かず、バイト代は整体やマッサージやアロマなんかに使っているろくでもない娘だ。
そういう風に思われていたと思います。家族にも、親戚にも、近所の人にも、友人にも。。。
その後、闘病中の生活を知っている大学時代の彼から、
「家で毎日寝ているだけでもいいから、結婚しよう!」と言われ、結婚しました。
最初の3年間くらいは、まだ体調が悪く、本当に毎日寝ていました(笑)
朝、夫を送り出してからまた寝て、夕方18時に起き、夕飯だけ作る。
パニック発作はほとんどもうなくなっていましたが、予期不安が強かったのと、うつなのか薬の離脱症状なのかわかりませんが、とにかく体が思うようには動きませんでした。

夫に対して、よく私なんかと結婚したなぁ~と思うのですが、夫は、
「未来は、20代に普通の人が働いているのと同じように、パニック障害という病気と闘っていたんだから、何もしていなかったわけではない。
いつか必ず、その経験と学んだことが、世の中の人の役に立つ時が来るんだから、働けなかったことを恥じることはない。
いつか必ず、社会の役に立つ時が来るんだから」
そう言ってくれています。
私もそう思って、今、このブログを運営しています。
自活へのお話を聞きたいとのことでしたので、完璧に経済的に自立しているわけではないので、参考にならず申し訳ないのですが・・・。
病気を通して、夫を通して、私が学んだことは、
人生は、画一的ではない。みんなと同じことをする必要はない。
若い頃は、学校を卒業して、会社に就職して、結婚して、子供を産んで・・・。
それが人生だと思っていましたし、そこから外れたら、もう人生は終わりだ・・・と思っていました。
でも、今、私が思うのは、
その時、その時、自分に与えられた課題を精一杯に頑張っていれば、道は必ず開く。
周りの人から見て、怠けているように見えたりサボっているように見えたりしたとしても、自分にとってそれが努力ならば、それは努力である。
そして、
一生懸命やっていれば、必ず理解してくれる人は現れるし、応援してくれる人・手を差し伸べてくれる人は現れる。
私を何度も何度も励ましてくれた歌です。
根の歌 コーラス・ジャパン
予備校に向かうバスの中で初めてのパニック発作に襲われた私が進学したのは、心理学科でした。
私が10歳の頃。
大人の世界ではバブルというものが起き、
土地や不動産・株の値段に一喜一憂するおじさんや、ボディコンを着てディスコで踊っているお姉さんの姿がテレビに毎日映し出されました。
前後するとは思いますが、同じ頃。
「女性の社会進出」ということが、マスコミによって全面的にアナウンスされ、
それまで専業主婦だった母親や近所のお母さんたちも、パートやお勤めに出るようになりました。
父は仕事で忙しく、母もパートでいない空っぽになった家の中で、当時10歳だった私は、
20年後、自分が30歳になる将来、
この国から、「お母さん」「家庭」というものがなくなってしまうのではないか?
と、強烈な不安を覚えました。
「お母さん」なんだから、家にいろ!
そういう古臭いことが言いたいわけではありません。

当時、10歳の私にとって、
「お母さん」とは、子供や家族に、心の栄養を与える人
外から食料を獲得してくるのが、お父さんだとしたら、
それを食事に変換するのが、お母さん。
食料⇒食事に変換する過程で、プラスされるのが、心
そう考えた私は、
将来は、
心の栄養を与える人になりたい!!!
そう思いました。
大きくなったら心理学を勉強しよう! 漠然とですが、10歳の私はそう決意しました。

浪人中に発病してしまいましたので、
受験勉強も大学での勉強も、何一つ満足には出来ませんでした。
重症化し、就職活動中に家から一歩も出られなくなってしまったので、
一般企業への就職も出来ませんでした。
闘病中は、塾講師と家庭教師のアルバイトをしていました。
ただ、ひとつ。
どんな時も、絶対に忘れなかったのは、
10歳の時決意した、
心の栄養を与える人になりたい!!!
という夢です。
2012年夏、
アメブロとTwitterで情報発信を始めて、たくさんの方がパニック障害に苦しんでいるということがわかりました。
私が病気と闘っている間、最も欲したのは、
医師でもカウンセラーでもなく、パニック発作の怖さを実体験として経験している人、そしてあの恐怖を乗り越えパニック障害を克服した人でした。
自分に何が出来るかわかりませんが、
昔の自分と同じように、今苦しんでいる方の心が少しでも軽やかになりますように・・・。
このブログが、
子供の頃からの夢のはじまりだと思っています。
SSRIを服用し、生死の淵をさまよい、
薬で病気は治らない! 薬は止めよう! と思った私は、薬の減薬・断薬に臨みました。
医師から「依存性はない」と説明されていた薬ですが、離脱症状は激しく、
病気の苦しさよりも、副作用の辛さよりも、この離脱症状の辛さが1番ひどかったです。
常に、頭の中で、「薬」「薬」「薬が飲みたい」「薬が飲みたい」と自分の声がするため、
ベッドにしがみついて、耐えました。
起き上がってしまったら、薬を飲んでしまうと思ったからです。
自殺念慮もひどく、「死にたい」「死にたい」という自分の声と闘い、
割れるような頭痛に、このまま気が狂ってしまっても仕方がない!と覚悟して、就寝したこともあります。

3か月くらいすると、激しい離脱症状は去り、軽いうつのような状態になりました。
パニック発作への予期不安もありましたが、少しずつ体調が安定してきました。
そこで私は、健康や病気に関する本を手当たり次第読み、
今までの、病院に行けば治る! 薬を飲めば治る!という考えは間違いだったということを知りました。
それまでは胡散臭いな・・・と敬遠していた、東洋医学や代替療法なども積極的に試してみました。
それから、約8年。
発作なし・薬なし・通院なしで、幸せに暮らしています。
このブログでは、
闘病生活の中で気づいたこと、治癒に向かう道で勉強したことなど、
医師や専門家の方とは違う、元患者・経験者の視点での情報を提供できたらと思っています。
つづき⇒プロフィール・特別編 ~夢のはじまり~
初めて行った心療内科でもらった抗不安薬を服用して、2週間。
薬を飲めば治る!と思っていた私は、まったく改善しない症状に、
もう一度、病院に行きました。
私「全然よくなりません」
医師「長年かけて病気になっているからね。そんなすぐには治りませんよ」
私「・・・・・・・・・・・・」

そこから、4軒の心療内科・精神科と、数軒の病院、
数えきれないほどの精神薬・薬を処方され、服用しました。
2001年の春~2005年の春まで。
大学4年の春から26歳の春までです。
薬を飲めば治る!と思っていた私は、
ひたすら、自分に合う薬、自分を治してくれる病院を探して、
病院巡りをし、多種多量の薬を服用していました。
最後に出会った薬が、SSRI、パキシルとルボックスです。
2004年の冬、私は生死の淵を彷徨いました。
*精神薬については、「薬のおはなし」というカテゴリーに記事があります。
その経験により、
薬では、病気は治らない!
薬を飲むのは、もう止めよう!
と決心し、
今の私があります。
薬に関しては、賛否両論、いろいろとあると思います。
私も、薬に助けられた部分は確かにありますので、全面的に否定するつもりはありません。
専門家ではないので、薬について言及することは出来ませんが、
服用していた元患者として、経験したこと、感じたことをこのブログでは紹介したいと思います。
つづき⇒プロフィール⑤ ~薬からの離脱と治癒への道~