昨日は、死ぬかもしれない!という恐怖と自我の崩壊という記事を書きましたが、書くのが難しかったです。
心理学は使われる用語が世間一般的な意味と違う場合があり、心理学としての意味で使うのか世間一般的な意味で使うのか混乱してしまい、書きたいのですが書けないということが多いです。。。
自我を崩壊させて新しい世界に出会ったほうがより豊かな人生を歩める。と昨日は書きましたが、
自我を崩壊させるといっても程度がありますから、より深刻になると、人格障害や自殺などに繋がり非常に危険です。
しかし、現実から逃げるわけにはいきませんから、出来るだけマイルドに行うと良いでしょう。
簡単にいうと、思い込みからの脱却でしょうか。
おそらく、若い頃にぶち当たる自我の崩壊とは、親へのイメージの崩壊ではないでしょうか。
強くて立派だと思っていた父親がただの一人の中年男だったとか、優しくて愛情溢れる母親がただの嫉妬深い女だったとか。
また、社会に対してのイメージの崩壊というものも若い頃にはありますよね。
親や大人は汚い!社会は理不尽だ! まさに反抗期ですよね。
おそらくこれは正常な心の働きで、もしかしたら、大事に育てられた人ほど反発が強いかもしれません。自分が生まれ育った豊かな世界と外界(世間)のギャップに耐えられないと言いますか、受け入れがたかったりするのかもしれません。
また、息子が結婚し嫁が来ると、過剰に嫁を敵扱いする母親というものもいますよね。
あれもまた、今まで自分が築いてきた家族が崩壊すると感じた母親が、過剰に防衛反応を起こし、嫁を拒否している状態です。
実際は、家族が崩壊するのではなく、新しい家族の形になるということなのですが、崩壊への恐怖が強いといつまでも生産的な方向に目がいきません。
社会でいうと、既得権との闘いみたいなものがあると思うのですが、
やはりこれも、これまでの価値基準・ヒエラルキーを守りたい!と思う反応というのは防衛反応といって良いでしょう。
不思議なのですが、これは地位が高い人だけではなく、その価値基準に依存している人にも起こります。
自我が崩壊する時というのはとてつもないエネルギーが放出しますから、一見戦争のような状態になり、混乱状態が生じることは確かです。
ただ、そうした様々な混乱も、自我の崩壊という危機を乗り越えたことがある人のほうが、静観できるでしょうし楽観できるかもしれません。
もちろん、崩壊のあとには再生がありますからね。
自我の崩壊を経験したことのある人間は、崩壊の後には再生があるということを理解できているのです。
パニック障害で最も厄介な症状として、死ぬかもしれない!という恐怖があります。
動悸や息苦しさ、発汗などと共に死ぬかもしれない恐怖は現れますから、肉体的に「死ぬかもしれない!」と思っているわけですが、今日は心の面から、この死ぬかもしれない!という恐怖を考えてみたいと思います。
人間の心には自我(エゴ)というものがありますが、
自我が崩壊するというのは、自分がこれまで見てきた世界・価値観、そうしたものでは理解できないものと接した時に起こります。
簡単にいえば、カルチャーショックでしょうか。頭をガーン!と殴られたようなかんじですかね。
すると心は、自分の自我を守るために防衛反応を起こします。怒ったり・イライラしたり・無反応になったり・拒否したりします。見て見ぬふりをしてしまうわけですね。
でもなぜか気になってしまったり、思い出すたびにドキドキしてしまったりしますよね。
たぶん人間は、その成長段階において、何度も自我を崩壊させて自分の世界を広げてきているのだと思うのですが、
どうしても自我を守りたい場合やある程度の年齢になると、それまで培ってきた自我を守りたい!という気持ちが強いと防衛反応が激しくなるのかもしれません。
最近の私の経験では、このブログを作るのにHTMLというものを書いたりしたのですが、それがアルファベットなんです。なのに、英文ではない。
それで少し頭が疲れてしまって、夜中眠れなかったり・明け方起きてしまったり・鬱っぽくなってしまいました。
要は、これまでの私が培ってきた頭では、アルファベットが並んでいると英文として読もうという気持ちになります。でも、英文ではないので、頭が混乱してしまうわけです。
それに気づいた私は、まずは、これは英文ではない!としっかり自分に言い聞かせて、headとかbodyという文字を目にするとついつい日本語にしてしまうのを止めました。
同じアルファベットでも、今まで自分が接してきた英文の世界ではなく、HTMLというまったく違う世界なんだ!と自分で意識することによって、自我の崩壊を防いだといえます。
(まぁ、この程度で崩壊する人はいないと思いますが・・・)
ある程度のお年寄りは仕方がないとは思いますが、若い方の場合は、自我を崩壊させて新しい世界を発見したほうがより豊かな人生を歩めるように思います。
しかし、これまで自分が培ってきた自我を壊すというのは、ものすごく怖いことです。
私も、出来ればあまりやりたくはありません。
先日、スラムドッグ$ミリオネアという映画をテレビで見たのですが、その時も次の日は少し鬱っぽくなってしまいました。
スラムというものの存在は知っていましたし、日本よりもはるかに過酷な環境に身を置いている人は世界にはたくさんいることは承知していたつもりだったのですが、やはりショックだったようで眠れなくなってしまいました。
フィクションである映画でそれですから、ノンフィクションや実際に現地に訪れたりしたら、もっとショックを受けるでしょう。弱い人間です。。。
自我が崩壊するということは自分の世界も崩壊するということですから、ものすごい恐怖ではあるのですが、一時期なショック状態を過ぎてしまえば、また新たな素晴らしい世界と出会えます。
新しい世界のほうが幅が広がっていますから、より豊かな世界になっているはずです。
死ぬかもしれない!と怖がっているよりも、人間はどうせ死ぬ!と受け入れてしまうと恐怖はなくなるのですが、
心の死(自我の崩壊)もそれと同じで、何度も自我を崩壊させながら人間は人生を豊かにしていくと考えると、恐怖は少なくなるかもしれません。
簡単に言ってしまえば、絶対にありえない!なんてことは、ない。
そんなかんじでしょうか。